「田舎っていいよね、のんびりしてて、自然もあって、人が優しくて。」
都会で暮らしていると、そんなふうに言われることがよくある。
確かに、田舎で育った私は、その恩恵を受けていないといえば嘘になる。季節の移ろいを肌で感じながら、地域に見守られて育つ。誰かが困っていたら自然に助け合う風土。人間らしい距離感の中で生きてきた。
でも、そういう「田舎のよさ」は、たいてい表の顔でしかない。
表があれば、裏もある。私は田舎で育つ中で、その“裏側”を強く感じていた。
■ 「誰かに見られている」という感覚が、ずっと消えなかった
田舎の最大の特徴は、人とのつながりが密なこと。
それは、安心感でもあり、同時に“監視網”のようにも感じられる。
例えば、職場の仲良くしている人と一緒にいれば、「彼氏ができたみたいで」なんてでたらめな事を噂にされてしまう。誰と付き合っているか、進学先や就職先、親との関係まで、ほぼ筒抜けになることも珍しくなかった。
自分の行動が「噂」になってしまうあの感覚は、思春期には本当に辛いもの。誰にも迷惑をかけていないのに、存在そのものが“見張られている”ような、あの独特の空気。何か違うことをすれば「浮いている」、変わったことを言えば「変な子」。そうして、だんだん本音を出せなくなっていった。
■ 「こうあるべき」という暗黙のルールに縛られる
田舎では、「普通はこうだよね」「みんなやってるよ」という言葉がよく使われる。
たとえば、地元に就職するのが当たり前。結婚は当たり前ではやくするもの。親の面倒を見るのも当然。夢を語るのはいいけれど、現実を見なさい──
こうした縛られた“空気”に疑問を持っていた私は、どこかで「ずっとここにはいられない」と思っていた。
だけど、その気持ちを表に出すと、すぐに否定されたり、笑われたりしたものだった。
多様性という言葉が届かない場所では、「個性」は「わがまま」と捉えられてしまう。
だから、自分の価値観を出すのが怖くなり、周囲に合わせるようになってしまった。そして、自分の考えも思いも抑え込み、他者思考で生きる性格の土台となった。
■悪口・陰口や土地の事での言い合い、噂が飛び交う中で成長してしまう
田舎では、人間関係は本当に密である。だからこそ、「困っていると助け合う」ということが基本で心は温まる。しかし、田舎ではおばあさんやおばさん方が、悪口や噂で盛り上がっているところをほぼ毎日見るのである。おまけに母親も同じように参加し、子どものころは、それをじっと一緒にいて聞くのだ。
悪口や良くない噂は、良くないマイナスの気がいっぱいである。そこでもし、成長期の子どもがそれをずっと体験してしまうと、感情のコントロールが出来なくなってしまうのだ。そして、自分自身も知らず知らずに陰口に参加してしまう傾向になってしまう。
もちろんだが、全ての人がそんな悪口や陰口を言っている人ばかりではない。しかし、田舎は狭い。人も少ないため人間関係は限られてしまう。おまけに、なにも特に楽しいと思える刺激はほぼない。つまり、特に意思を持って何かに取り組んでいる人を除いたら、暇であるから人の事を言ってしまうものである。
そして、土地をめぐる言い争いなど頻繁に起きる、執着心が深い。人間関係が一歩でも崩れたら、ドロドロな人間関係になり、生活しにくくなることも。
田舎には、関わる人をよく観察して注意深く関わり、選んでいかないと、心も考え方も見方もとてつもなく狭い性格になりやすいというところが、裏の顔でもある。
■ 選択肢がなさすぎて「諦める」ことに慣れてしまう
田舎での暮らしは、ある意味とても効率的だ。みんな同じような道を進むし、道に迷うことがない。でも、それは裏を返せば、「選べるものが少ない」ということ。
高校卒業後の進路は、ほとんどが地元企業か県外への就職か進学。やりたいことがあっても、そのためのスクールや情報がない。
「やりたいけどムリだよね」が当たり前になると、人は次第に「やりたいと思うことすらやめる」。おまけに否定されるのは常日頃。相当な確信やぶれない心を持っていなければ、流されておしまいだ。
私もかつて、医者になりたい、大きなことを成し遂げることをしたいと思っていた。でも、そんな夢は誰にも言えなかった。言ったとしても、どうせ笑われるか、現実を突きつけられるだけだと思っていた。
そして、何より自分自身が「叶うわけがないか」と自信持てずに恐れて、最初から諦めていた。
都会に出てから初めて、「やりたいと言ってもいいんだ」「夢を語ってもバカにされないんだ」と思えた。そのこと自体が、衝撃だった。
都会の人はこうとか、田舎の人だからこう、というのは無い。ただ、関わる世界の広さの問題だと感じた。
■ 帰省が“癒し”ではなく“確認作業”になる
社会人になり、都会で自分らしく生きられるようになってからも、田舎との距離感には悩まされた。
帰省するたびに飛んでくる、「まだ結婚してないの?」「そろそろ戻ってきたら?」という言葉の数々。
心配してくれているのは分かっている。でも、時が止まったような地元の価値観に、自分がどんどん“異物”として扱われていくのを感じた。
いつのまにか、帰省は“癒し”ではなく、“自分がどれだけ「外れて」きたかを確認される場”になっていた。
それが苦痛となり、実家との距離が少しずつ離れていった。
■ 「田舎が嫌い」ではない。でも「合わなかった」のだと思う
ここまで書いてきたことは、田舎を否定したいわけではない。
田舎には田舎の良さがある。自然、人との距離感、地に足のついた生活──それらは今も大切なものだ。
でも、「田舎=みんなにとって良い場所」とは限らない。
合う人もいれば、合わない人もいる。自分に合わなかっただけ。
その感覚を、自分の中でちゃんと認めてあげたことで、私はようやく「田舎」に対してフラットな気持ちになれた。
田舎の良さは、都会に負けずにあるものだ。
ただ、「自由に向上心もって、チャレンジしたい。普通では、後悔する。」そういう観念があるからこそ、都会に出て多くの経験と学びを必要とする。
反対に、都会にいて心身崩すことも多い。そんな時こそ、田舎に帰ったときに感じる自然の温かさ、人々の温かさを感じることが多い。都会では見ることのできない星空も、自然豊かな田舎では星空はきれいに見える。静かな夜に空を見上げて星を見るだけでも、心は癒されるのである。
■ おわりに:「違和感」は、自分の本音のサインかもしれない
田舎に育ち、都会に出た今、私は思う。
「窮屈だな」「生きづらいな」と感じたあの違和感は、自分の本音だったのだと。
だから、今まさに田舎にいて、モヤモヤを感じている人がいたら、無理に押し殺さなくていい。
その気持ちは、あなたが“自分らしく生きるため”の第一歩かもしれない。
田舎にいるのが正解でも、都会に出るのが正解でもない。
正解は、あなたの中にしかないのだから。



